建築・デザイン系

第4回 木造研究部会

 平成12年8月24日〜25日にかけて、第4回木造研究部会が参加者11名で香川県丸亀市を中心に開催された。夏も終わりというのに、気温37℃弱の炎天下の中での、体力勝負の見学会、研修会となった。

 初日は、丸亀市沖の本島(瀬戸大橋の西側に位置する)笠島地区の伝統的建造物群保存地区の見学、2日目が香川県立丸亀高等技術学校見学、棟梁香川量平氏による大工道具の講演、エクスカーションとして、讃岐うどんツアーと琴平の金丸座の見学と今回も多岐にわたるスケジュールであった。初日の報告を、亀山啓司(丸亀高等技術学校)、2日目を杉本誠一(近畿能開大)が行う。

 


 潮流がぶつかり渦巻く゛潮湧く゛といわれた海の道の要衝であった塩飽諸島は、大小28の島々からなる。西瀬戸内の村上水軍に対して、東瀬戸内では、塩飽本島を拠点とする塩飽水軍の盛名が高かった地である。瀬戸内海という視点で考えてみると、木造船製作技術やそれに伴う船大工用具が、和船、洋式船を問わず木造船の激減とともに、生活から見えなくなったのは、なぜだろうかと自然と頭に浮かんでくるのも木造研究会の一員となったためであろうか。

 今回は、数々の歴史遺産と瀬戸大橋の雄大な眺望を満喫できる香川県丸亀市塩飽本島町笠島(重要伝統的建造物群保存地区)に足を運んだ。丸亀市刊行の「本島町笠島ー伝統的建造物群調査報告書」続編に、伝統的建造物群の特性は次のように掲載されている。

 現在は、山麓に並んでいた四か寺は廃寺となり、港は埋め立てや護岸工事によって形状を変え、また過疎化による建て物倒壊は家並みに歯抜けを生じ、また一部に新形式の家が見られるものの、いまなお往時の面影を色濃く残し、江戸時代の道路空間や建物の造形がよくわかる。東小路、マッチョ(町どうりがなまったらしい。)の通りの主要道路沿いには、江戸末期から大正期にかけて建てられた切妻造、片入母屋造、入母屋造、本瓦葺、平入形式のつし二階造りで、上階を塗屋造とし、虫籠窓、格子窓を設け、下階は、腰格子付き雨戸構えと、出格子、窓出格子を組み合わせた表構えとする町屋形式の建物が立ち並び、間に土塀構えの家が散在する。

 通りを 高嶋つつむ氏(丸亀市教育委員会)の案内で歩くと、ふと見る街角に時代の痕跡を見ることができた。人の生活があるので気ままは許されないが、小栗氏宅(回船問屋)、真木氏宅(年寄りの家)、藤井氏宅(島役人の家)の3軒の屋敷を案内していただいた。

 全国に軌跡を残す塩飽大工の技を随所に見、永く次代に伝わればと思いつつ金毘羅船が賑わいを見せた丸亀港に向かった。熱心な行政担当者と住民の方々による生活を残した街造りは、今後も続くであろうと瀬戸の海の上で確信した。『亀山記』

 


 2日目は、まず早朝から丸亀高等技術学校の見学である。校長の吉光彌氏より全体説明を受けた後、訓練課長坪井俊三氏、総務課長宮本修氏両名の案内で、建築技術科(中卒1年訓練)、ツーバーフォー建築科(離転職者6ケ月訓練)の2科の実習風景を見学した。工夫を凝らした短期間での技能訓練風景を目にし、実習の原点に返った思いがしたのは小生だけでは無かったようだ。香川県では大工技能職の要望は多く、就職は好調のようである。

 


 場所を四国能開大に場所を移して、大工棟梁の香川量平氏の大工道具よもやま話を拝聴した。当初12時までの予定が棟梁の熱のこもった説明と会員の興味が一致し、1時間延長の午後1時まで休みなしの研修を行った。おかげでうどんツアーは予定変更で「まぼろしの中村屋」、「つけ麺の長田」の2軒に短縮された。

 

 棟梁は自分の使っておられた大工道具を多数持参してこれを示しながらの話となり、当初会員は座って拝聴していたが、10分も経たないうちに全員がメモ帳片手に棟梁を取り囲みながら、話に聞き入ることになった。

 まずは大工の三宝(三種の神器)の「曲尺(サシガネ)」「墨壺・墨さし」「釿(チョウナ)」である。棟上げの後、写真のように水の字の形取って道具を置き、火伏せの神である罔象女神(ミズハノメノカミ)に火災に遭わないようにと祈ったという。

 


 さてメインテーマの曲尺についての話である。曲尺は聖徳太子が玉造に四天王寺を建立したときに唐の工人がもたらしたものである。同じものを大阪の鍛冶屋に造らせ、これが大阪の「又四郎尺」という棟梁の自説から始まり、「高麗尺」「享保尺」「折衷尺」等の話がよどみなく語られた。そして「吉凶尺」についてその由来の「魯般尺(ロバンジャク)」と北斗七星の分極星の関係から「北斗尺」と呼ばれる所以、そして「吉凶尺」は一尺二寸を八等分して、吉凶を決め、仏像や刀剣は必ずこの吉寸で造られていること、中国は裏尺を八等分しているので一尺四寸一分四厘を八等分であるなど興味の尽きない話がなされた。

 また、昭和35年の尺貫法の廃止に、永六輔氏、西岡棟梁、直井棟梁などが反対し、曲尺の文化と効能を説いて回り、曲尺の尺使いが認められたこと、それに伴う永氏と香川棟梁の交流が紹介された。

 

 続いて木割り術、規矩術の話になった。平内(ヘイノウチ)家の奥書に、棟梁になるには五意達者と記され、

  1.  墨かね(スミカネ)【木割・規矩】
  2.  算合(サンゴウ)【積算】
  3.  手仕事【技能】
  4.  絵図面【下絵・輪郭図】
  5.  彫刻の能力がずば抜けていること、それに加えて
  6.  品行方正であり
  7.  毛筆が達者であること

が条件だとされている。現在の建築技術者にも通じる内容である。

 鉋(カンナ)は現物に触れながら、一枚鉋と二枚鉋では刃の勾配が七寸と八寸の違いがあること、削る木によって硬木の場合は九寸から矩勾配のなることなど、大工が自分の腕と削る材料を考えて自ら鉋台を造ったこと、鉋には「東京型」「越後型」「関西型」があること等が紹介された。

 「やりかんな」は実演を交えて行われ、棟梁によってシュルシュルとでてくる鉋屑はネズミのしっぽに似ていることから安産のお守りとなると聞かされ、密かに持ち帰った女性会員もいたようである。

 実演後、会員自らの挑戦である。当たり前の話であるが棟梁のようには削れず、悪戦苦闘しながらも先人のすばらしい技能に触れた瞬間であった。

 最後は鋸(ノコ)の話である。鋸には表裏があり、表から見て右側が横切り歯で、この面に銘が掘ってあることや、鋸の先が元より薄くこれを定平(テイヘイ)と呼びこれがないと腰が弱い、また鋸は首部分で継いであり、ここからが鋸の長さ【鋸身】になり、刃のついている部分をさすのでは無いことが語られた。

 あっという間に時間超過、午後1時となりなごり惜しいが、ここで棟梁のよもやま話に終止符を打った。これで大工道具の講釈なら誰にも負けない等という不埒な考えを持ったのは小生だけであろうか。

 


 この後、丸亀高等技術学校校長も推薦のうどんツアーであったが、目指す3店は超有名店、売り切れ閉店でまぼろしの中村屋のみとなり、残りの2店は今後の楽しみとなった。 最後に、琴平町の金比羅大芝居小屋である日本最古の劇場建築「金丸座」を見学した。枡席を一人で占領し、満喫している会員、奈落の底に落ちていく会員、楽屋で歌舞伎役者を気取っている会員の姿があちこちで見受けられた。

 初日午前11時から2日目午後3時までのロングランを感じさせないほどの充実感と程良い疲れで帰路につくこととなった。『杉本記』

 

 次回は、11月下旬に、兵庫県三木市を中心に、大工道具の製造過程について見識を深める予定です。多数の参加をお待ちします。

 

 

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